ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 317

☆ 世界最高峰の紳士服生地☆

2010.08.18号  

 エルメネジルド・ゼニアは北イタリアで、1910年に自らの名を冠したテキスタイルメーカー「エルメネジルド ゼニア」を創業した。父アンジェロ・ゼニアは1859年に農家に生まれ、時計職人になったが、やがて毛織物を手掛けるようになり、フレッチナ地区で織物製造会社を設立。45歳の時に工場を焼失したが、アルプス山麓にあるトリヴェロの地に移って工場を再建する。アンジェロの10番目の末息子として生まれたエルメネジルドは、職業繊維学校で学んだ後、父親から4台の織機を受け継ぎ「ラニフィーチョ エルメネジルド ゼニア」を設立。この家業を受け継いだ時、エルメネジルドは18歳だった。世界を飛び回って最高級の羊毛を集め、それまで存在しなかった高品質の生地を創り出した。イタリア屈指の若手起業家として注目され、1930年には最新鋭の英国製紡績機械を導入して、高品質毛織物の生産を始める。1938年には自らのブランドで米国などの、国際マーケットにも進出。通常の顧客だけでなく、第一線のファッション・デザイナーにも供給できる流通機構を構築した。近代的な企業に成長したブランドは、今年100周年を迎えた。1966年にエルメネジルドか没したが、2年後の1968年になりアルド(のちに会長)とアンジェロ(のちに社長)の二人の息子が事業を引き継ぎ、紳士服生地業界で確固たる地位を築いた。その後、メンズ・プレタポルテの分野も展開。スーツやジャケット、スポーツウェアなどが国際的評価を得る。テキスタイル業界で初めて、生地の耳にブランドネームを織り込んで品質保証をしたことでも知られ、メンズブランドとしてのエルメネジルド ゼニアの名を世界に認知させる。素材の開発から原毛の買い付け、紡績や染色、そして製品化までトリヴェロの工場で一貫した自社生産体制が取られている。

 1980年代になるとゼニア家の第三世代が経営に参画するようになる。アルドの息子パオロが服地部門の総責任者に就任。アンジェロの息子は創業者の名前エルメネジルド(通称ジルド、現グループCEO)を受け継ぎ、プレタポルテ部門の総責任者に就任。ジルドの妹アンナはグループ全体のイメージと、全世界のコミュニケーションを総括。ジルドの末妹ベネディッタが販売スタッフのトレーニングと、直営店やフランチャイズ店のプロモーションを担当。パオロの姉ローラは環境部門を担当。創業者がブランドを確立し、二代目が小売りに進出、三代目が小売店の世界展開をするなど、時代の流れを的確に掴んだ経営を続けている。「トッズ」(既号151.職人のこだわり)や「ベネトン」(既号202.庶民的価格で最高品質)のように、イタリア企業に多いオーナー型企業である。多くのブランドがクローバル資本に呑み込まれる中、家族経営を貫いており、創業者一族が創業期からの価値観を守り育てているのが、揺るぎないブランドを発信する原点となっている。ゼニアの特徴の一つがオーダーメイドの「ス・ミズーラ」(イタリア語で「あなたのサイズに合わせて」の意)と呼ばれるシステムである。パターンオーダーだが、生地選びから仕上がりまでのプロセスに、ゼニアのポリシーと独自のノウハウが生かされている。定番250種類とシーズン200種類の生地と、100種類以上のモデルから顧客の好みが選ばれる。基本的な採寸の後、サイズに近いマスターガーメントを着用して補正データを取る。作成されたデータはイタリアかスイスにあるス・ミズーラの専用工場に送って仕立てられる。リードタイムは約3〜4週間。オーダー可能なアイテムはスーツ、ジャケット、コート、ベスト、トラウザース、フォーマルウェア、ドレスシャツなどとなっている。現在、エルメネジルド ゼニアの顔として活躍しているのが、映画「戦場のピアニスト」でアカデミー主演男優賞に輝いたエイドリアン・ブロディである。同社のモデルを務めアカデミー賞やゴールデン・グローブ賞の授賞式には、同社のタキシードを着て出席している。

 2002年9月に公開(日本公開2003年2月)された「戦場のピアニスト」はドイツ、フランス、ポーランド、イギリスの合作映画。ナチス・ドイツがポーランドへ侵攻後、ワルシャワの廃墟の中を生き抜いたユダヤ系ポーランド人ピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマンの体験を元に製作された。キネマ旬報2003年度外国映画ベスト1。同読者選出ベスト1。2002年カンヌ国際映画祭パルムドーム(最優秀作品賞)。全米批評家協会賞の作品賞、監督賞、主演男優賞、脚本賞。英国アカデミー賞の作品賞、監督賞。第75回米国アカデミー賞の監督賞、主演男優賞、脚本賞など各国で多数の賞に輝いた作品である。この米国アカデミー賞授賞式にロマン・ポランスキー監督は、米国へ入国すると逮捕されるため欠席。未成年者への強姦罪容疑で逃亡の身であった。エイドリアン・ブロディは29歳で、主演男優賞の最年少記録。又、宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」が長編アニメ賞を受賞した。『ラジオ局のスタジオでウワディスワフ・シュピルマン(エイドリアン・ブロディ)はピアノ演奏をしていた。彼はポーランドでは有名なピアニストだった。1939年9月、彼と彼の家族の生活は一変する。第二次世界大戦が勃発し、ナチス・ドイツ軍はポーランド侵攻を開始。ラジオ局はドイツ軍の爆撃で倒壊するが、シュピルマンは運良く脱出。1940年の後半になり、ユダヤ人達はワルシャワのゲットー地区に居住させられる。シュピルマン一家も長年住み慣れた我が家を後にした。迫害や飢餓そしてナチスの虐殺行為で、死の恐怖に脅かされながらカフェのピアノ弾きとして生き延びていた。1942年になり一家は大勢のユダヤ人達と共に収容所へ送られることになる。最期を悟ったシュピルマンの父は、持っている全財産で少年からキャラメルを1個買い、家族で分け合った。間もなく収容所行きの家畜専用列車に乗せられるが、シュピルマンだけは旧知の警察官の手で、収容所行きを免れる。翌年、シュピルマンはゲットー地区からの脱出を決行。知人の手引きで反ナチス地下活動組織に匿われ、僅かな食料で食いつなぎ、ひっそりと隠れ住むようになる。ほどなくゲットー地区のユダヤ人達が蜂起し、シュピルマンは窓からドイツ軍との激しい交戦を目のあたりにする。しかし、ゲットー地区のユダヤ人達すべてが虐殺される結果となった。ワルシャワの状況は一層悪化する中、シュピルマンは隣人に存在を気づかれ、再び隠れ家から逃避する。親友の妹を頼り、彼女とその夫に匿われる。1944年8月、ポーランド人抵抗勢力によるワルシャワ蜂起が起こり街は戦場と化した。ワルシャワは崩壊して住む者も居なくなり、シュピルマンは廃墟の中で完全に孤立無援の状態となった。ある日、廃墟の中で食べ物を漁っていたシュピルマンは、ドイツ軍将校に見つかってしまい尋問される。シュピルマンがピアニストだと知った将校はピアノ演奏を要求。曲を聴いて感動した将校は、屋根裏部屋を提供し食料も与えてくれた。やがて、ソ連軍の攻勢に対してドイツ軍はワルシャワからの撤退を余儀なくされる。将校は別れ際にシュピルマンの名を聞き、彼の演奏を再びポーランドのラジオで聴くことを約束。寒そうにしているシュピルマンを見て将校は、自分が着ていた軍服のコートを渡して立ち去った。その後、数週間で終戦となり強制収容所から解放された人達が帰路につく中、道脇に捕虜となったドイツ兵らが集められていた。そこには、あの将校の姿もあった。』原作は1946年にポーランドで「ある都市の死」として刊行された。冷戦下ポーランドでは、シュピルマンを救ったのが旧敵国のドイツ人では具合が悪く、やむなくアーストリア人としたが、ポーランド共産主義政権下では絶版となった。その後1999年になって英訳版が、2000年に邦訳版が刊行される。映画ではショパンのピアノ曲が演奏された。エンディングでは「華麗なる大ポロネーズ」の部分を、ワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団、ピアノはヤーヌシュ・オレニチャクで演奏された。使用されたピアノはスタインウェイ(既号165.ピアニストの憧れ)だった。

 エルメネジルド ゼニアの日本での展開は、1977年にゼニア・ジャパンが設立された。
「エルメネジルド ゼニア」ブランドのメンズウェアと、「アニオナ」ブランドのレディースウェア、服地の輸入卸・販売を手掛ける。アニオナは2005年A/Wから三喜商事に移管された。1996年に国内初の直営路面店を銀座にオープン。2007年には丸の内に直営路面店をオープン。2009年にはアジア初の旗艦店を新宿にオープン。建築はルイ・ヴィトン(既号16.LVMHの5バリュー)やシャネル(既号261.アトリエ開設100年のブーム)の店舗設計も手掛けるピーター・マリノによる。総面積850屬5層ショップである。店舗は外観のスチールや、店内における木目のテーブルなど、至る所でエルメネジルド ゼニアのこだわりが表現されている。国内の直営店は港区・北青山の「青山店」、大阪市・心斎橋筋「大阪店」があり、百貨店インショップは新宿伊勢丹、池袋東武、銀座松屋、日本橋三越、玉川高島屋など、全国主要都市に22店舗展開している。


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