ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 264

☆ ブランドの危機☆

2009.08.05号  

 山本耀司は1943年10月に、東京で洋装店を営む両親のもとで生まれた。66年に慶應義塾大学法学部を卒業した後、文化服装学院やセツ・モードセミナーに入学。卒業した69年に、第25回装苑賞を受賞し、ファッション・デザイナーとしての基礎を築く。プレタポルテを志向し、72年に最初の法人として「Y’s(ワイズ)」を設立。77年には東京コレクションにデビュー。81年にはパリ・プレタポルテ・コレクションにデビュー。その後にYOHJI YAMAMOTOラインを発表。84年にはグループの中核企業となっている「ヨウジヤマモト」を設立し、世界を舞台に活躍するようになる。現在ではパリ、ロンドン、フィレンツェに支店を登記。イギリスやアメリカにも現地法人を設立している。
90年にはJR東海の制服をデザインし、洗練されたデザインが大きな話題となった。93年にはバイロイト音楽祭でワーグナーのオペラ「トリスタンとイゾルデ」の衣裳を担当。99年にも坂本龍一によるオペラ「LIFE」を担当。2001年には北野武監督映画「BROTHER」の衣裳を担当し、その後も「DOLLS」「座頭市」など、北野作品にはすべて関わっており、北野武は山本耀司の服を愛用していることでも知られている。
山本の長女・里美(りみ)もデザイナーで、2006年にヨウジヤマモトから分社された「リミヤマモト」で、自身のレディース・ブランド「LIMI feu」を展開している。

 山本耀司が最初にパリ・コレクション出展の時、「Y’s」の名を冠したが、当時は既に神格化されていたイヴ・サンローラン(既号176.C・ドヌーブをイメージ)の名に似ていると非難され、その後はYOHJI YAMAMOTOの名で出展するようになった。ブランド・ラインはYOHJI YAMAMOTOレディース・カジャアル・ラインの「ファム」、フォーマル・ラインの「ノアール」、メンズ・ラインの「プールオム」。自立した女性をテーマとした「Y’s」。Y’sを着た女性の隣にいる男性をコンセプトとした「Y’s for men」。アディダス(既号138.ダスラー兄弟)とのコラボレーションでスポーツファッションとモードの融合を試みた「Y3」。イタリア製のスーツ・ライン「Y」などを展開している。デザインは「アンチモードによってモードを制する」スタイルをとっており、パリコレなどのモードの最前線で、その時に旬のモードを否定するデザインを発表。その時々の流行に媚びることのない服作りは、この20数年間変わることはない。2002年にはパリ・オートクチュール・コレクションの期間中に、プレタポルテのショーを開催。オートクチュールは出展するメゾンが、豪華絢爛を競い合う場であり、既製品の量産を前提としたプレタポルテとは、別次元のものと考えられてきた。そのため現地では「クチュールへの挑戦」と受け取られることもあった。しかし、続いてショーを開いたクリスチャン・ディオール(既号63.ディオールのシルエット)も、反クチュールをテーマにした。その後はプレタポルテ・コレクションの期間外にショーを開催するメゾンが増え、山本耀司はオートクチュールの流れに変化を与える先駆けともなった。服のデザインは彼自身の価値観や、反骨精神が反映されたものが多く、その精神や思考に共感したり魅了された消費者は、彼の熱烈なファンとなっている。彼が創り出すシルエットや独特の雰囲気を持つ服は、単なる洋服の域を超え、芸術作品とも云える域に達しつつあると云っても、言い過ぎではないかも知れない。

日本における衣服のデザイナーズブランドと、キャラクターズブランドの総称を、「DCブランド」と呼ばれている。デザイナーズブランドとは、デザイナーがブランドのイメージづくりから、商品の企画・製作まで主導的立場で関わる。因って、デザイナー自身が会社の経営者であることが多い。代表的なのがジョルジオ・アルマーニ(既号131.モードの帝王)や、ドルチェ&ガッバーナ(既号184.マドンナのお気に入り)などである。キャラクターズブランドは企業経営者が、経営戦略の核となるイメージ(=キャラクター)を、消費者に対して打ち出しているブランドを云う。基本的には国内における業界用語のため、海外ブランドがこう呼ばれることはない。代表例として、国内の「ピンクハウス」、海外における「ディーゼル」などがある。バーバリー(既号197.英国イメージのブランド)やディオールなどが、日本でライセンス展開する場合も、一種のキャラクター展開として考えられている。DCブランドとしての定義は前述したことにあるが、DCブランドそのものとは全く異なる現象として「DCブランドブーム」が、80年代中頃に出現した。これは日本国内でのみ起きた現象であり、その後も継続したブランドは、山本耀司の「Y’s」、川久保玲の「コムデギャルソン」、三宅一生の「イッセイミヤケ」などの極一部で、これらを除くと海外での人気や知名度は皆無のものがほとんどであった。しかし、ブームはマガジンハウス社が発行する「anan」や「POPEYE」などの雑誌が火付け役となり、その後は「JJ」などの他社の雑誌も取り上げて全国に広まっていった。全盛期のセールでは、これらのブランドがテナントとして入っていた丸井やPARCOなどの、ファッションビルや、デパートの周辺は早朝から行列ができるほどであった。店舗の女性販売員はハウスマヌカンという符丁で呼ばれ、人気職種にまでなった。だか、このブームも85年のプラザ合意に端を発した、急激な円高やバブル景気を背景に、アルマーニや、ジャンニ・ベルサーチ(既号134.連続殺人魔とベルサーチ)など、ラグジュワリーブランドの本格的日本進出より、80年代後半には終息した。

 この原稿を書いている最中にWebサイト(4日午前・日経ビジネスオンライン)から思わぬニュースが飛び込んできた。ヨウジヤマモトが身売りを検討していると言う。スポンサー探しを進めていることが明らかになったのは、同社の子会社であるリミヤマモトが、先月29日付けで取引先に宛てた要請文。これには7月末期日の支払を20%にする猶予を求め、残分を8月末まで繰り延べるというもの。さらに「弊社の状況」として「(株)ヨウジヤマモトは現在、スポンサー候補による投資検討、取引金融機関による金融支援が継続しております」との説明が、取引先に対してなされたという。ヨウジヤマモトも同様の要請文を、取引先に提示している模様。広報宣伝部では「そうしたものを配布したのは間違いないが、未だ何も決まっていないのでコメントできない」としているようだ。非上場企業のため業績面の詳細は不明だが、05年8月の時点では利益剰余金が44億円あり、自己資本比率も50%近く、その時点での内部留保は潤沢であったようだ。業績不振が加速したのは最近になってからとみられる。業績面との関連は不明だが、オーナーであった山本耀司氏は4月30日付けで代表取締役を辞任。経営の前線からは退いているという。日本人デザイナーの有名ブランドとしては、02年に「ハナエモリ」(既号150.世界に誇るクチュリエール)が民事再生法の申請を行い、結果的にブランド全体が三井物産によって救済された。数年前までは銀座や表参道に海外高級ブランドが、相次いで旗艦店を出店していた。その影響で原宿の裏通り(通称ウラハラ)まで土地が値上がりし、不動産バブル復活の発火点とも云われていた。しかし、様相は一変しており、リーマンショック後の100年に一度と云われる景気悪化で、高級ブランドの悪戦苦闘ぶりが窺える。特に最近の円高ユーロ安も悪化要因の一つになっており、フェラガモ(既号182.伝説の靴職人)、カルティエ(既号67.ジュエラーの王様)、ルイ・ヴィトン、ディオールなどの代表的ブランドも、相次いで値下げに踏み切った。高級ブランドの支えを失った百貨店の業績も悲惨な状態である。全国百貨店の売上高は、2月から5月まで連続して前年比二ケタの落ち込み。少し持ち直したと云われる6月でも8.8%のマイナスであった。
一方では、低価格のカジュアルブランドが好調に推移。低迷していたしまむらは、既存の中高年女性客に加え若い女性も取り込み、売上は今年になって前年同期を上回っている。ユニクロとジーユーを展開するファーストリテイリングは絶好調。09年8月期の第三四半期(08.9月〜09.5月累計)は、売上高5370億円で前年比17.2%増となっている。
様々な消費の経験を積んだ消費者は、かつてないほど賢くなっており、価格と価値の違いを認識するようになった。そして、消費者はその適度なバランスを望んでいる。
こうした状況変化の中で、強烈な個性と優れた感性を持つデザイナーに、大きく依存した高級ブランドの身売り話は、時代の変化の象徴的出来事のような気がする。


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