ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 288

☆ 前衛派アパレルの旗手☆

2010.01.27号  

 前衛派アパレルの旗手「コムデギャルソン」は、デビューから40年が過ぎた。業界ではユニクロなど一部の、低価格アパレルブランドを除いて、売上が極端に低迷している。その中にあってコムデギャルソンは次々と反骨精神を打ち出し、国内はもとより海外でも高い知名度を武器に活躍の場を広げている。創設者の川久保玲は「私にとって服は表現の場で、方法論の一部に過ぎない」と語る。日本が世界に誇る女性ファッションデザイナー川久保玲は、1942年10月に東京で生まれた。慶応義塾大学の職員であった父親の関係から、同大学文学部人文社会学科で美学を専攻。卒業後は旭化成に入社し、宣伝部でスタイリストを経験する。わずか3年で退社し、フリーのスタイリストとなる。1969年にコムデギャルソンのブランド名で、婦人服の製造販売を開始。ブランド名の由来はフランス語で「少年のように」の意である。1973年にブランド名と同じ「コムデギャルソン社」を設立。1975年には東京コレクションに初参加し、この年に東京・青山に初の直営店をオープンする。山本耀司(既号264.ブランドの危機)とともにパリに渡り、服飾の既成概念を崩した一人である。1981年にパリ・プレタポルテ・コレクションにデビュー。それ以後はパリを中心にコレクションを展開。非構築的で斬新な表現手法はクリスチャン・ディオール(既号63.ディオールのシルエット)のジョン・ガリアーノ(既号200.ブランドとデザイナー)など多くの外国人デザイナーにも影響を与えた。黒を基調としたコレクションは、かつて「黒の衝撃」「ジャパネスクカジュアル」などと呼ばれ、世界中から注目を浴び、洋の東西を問わず根強い人気を誇っている。1980年代の日本では黒の服に、おかっぱ頭の女性が街を闊歩し、「カラス族」なるスタイルを生み、それが流行語にもなった。イギリス人の夫はコムデギャルソン社の幹部である。

 コムデギャルソンは黒色を多用することで知られ、黒い服の代名詞にまでなった。1980年代前半のコレクションでは、確かに白や黒を中心としたモノトーン調で、それまでの常識を覆すものであったことが通説になっている。しかし、ファッションの歴史を振り返ったとき、ソニア・リキエル(既号189.ニットの女王)やジャン・ポール・ゴルチェ(既号265.超売れっ子デザイナー)など、1970年代後半頃から既に取り入れていた。特にリキエルは同時代に「黒のソニア」として注目された時期があり、川久保玲の作風は当時の時流に乗った色づかいでもあった。通説があるのは、それほどコムデギャルソンのインパクトが強かったことの証左である。コムデギャルソンは色調だけでなく、シルエットが斬新で、捻れや歪みを布で表現することも取り入れ、布地の平面性とそこから可能な表現も追求している。左右非対称というより、全体で一つの有機的存在を形創るイメージである。また、布地だけで強烈な個性を表現する手法や、頭部から爪先までを如何に表現するかなど、彼女の表現手法には一貫したものがある。さらには布地を敢えてボロボロにして使ってみたり、セーターに穴を空けるなど、前衛的な表現が多く見られ「乞食ルック」「ボロルック」とまで云われる独特のファッションで、独自の世界を作り上げていった。ファッションに対する技術と熱い情熱。その中にあってビジネスとしての感覚も、相当程度意識されている。このような絶妙なバランス感覚が、川久保玲の人気を支えている。パターン数が多いのに生産数が少なく、細かな縫製チェックも徹底されており、これを可能にするアートファクトリーと呼ばれる製造工程を形成。因って製造には時間が掛かり、販売数が増えると品切れ状態となる。商品が店頭から消えると、必然的に価格は高止まり状態。そのような背景があり、川久保玲が自らデザインした青山の路面店では、芸能人などのセレブ達の御用達ともなっている。先進的な試みは国際的にも高い評価を受け続けており、海外からは日本を代表するブランドとして見なされている。ロバート・デ・ニーロなどを始めとする世界各国のセレブ達にも愛用されている。

 コムデギャルソンのファンは、大きく分けると二つのイメージがあると云われる。ストリート・ファッションに染まっているようなミーハー族と、川久保玲が繰り出す魔法に心酔しているデープなファンである。これらのデザインは川久保玲が自らと、渡辺淳弥、栗原たお、丸流文人の四人が担当する。コムデギャルソン社では川久保が社長、渡辺淳弥が副社長を務めており、デザイナーが経営面においても責任を持つ姿勢を明確にしている。渡辺淳弥は1961年に福島県に生まれる。文化服装学院デザイン科を卒業し、コムデギャルソン社にパターンカッターとして入社。3年後にトリコ・コムデギャルソンのデザイナーに就任。1992年に初めてのソロコレクション「ジュンヤワタナベ・コムデギャルソン」の、チーフデザイナーに就任し、東京コレクションにデビュー。翌年にパリ・プレタポルテ・コレクションにデビューする。1995年に日本エディッターズ・クラブのデザイナー賞を受賞。1999年には第17回毎日ファッション大賞で大賞を受賞する。栗原たおは1973年生まれ。セントマーチンズでファッションを学び、卒業後にコムデギャルソン社に入社。「トリコ」ブランドのデザインを担当。2005AWシーズンに、自身の名を冠したブランド「タオ・コムデギャルソン」をスタートさせ、パリで最初のショーを開催した。コムデギャルソン社からデザイナー自らの名を、ブランド名として立ち上げたのは渡辺淳弥に次いで二人目である。丸流文人は1976年生まれで、文化ファッション・ビジネススクールで学ぶ。在学中の2003年、第3回YKKファスニングアワードで優秀賞を受賞。大会コンセプトは「機能美と美機能」で、一から服を創らずともファスナー自体に装飾品などを縫いつけ、容易に服を変化させることが出来る服を制作。翌年に卒業してコムデギャルソン社に入る。渡辺淳弥の下でジュンヤワタナベ・コムデギャルソンのパタンナーを担当。2008年にコムデギャルソン社から、自身の名を冠したブランドGANRYU(ガンリュウ)をスタート。ロック調でストリート感覚を取り込んだファッションを発表して注目を浴びる。

 川久保玲が最初にパリで開いたコレクションは、センセーショナルで賛否両論が沸き上がった。服飾の既成概念を壊したアバンギャルドで、斬新な表現手法は「広島シック」「黒の衝撃」などと云われ批判を受けた。しかし、アバンギャルドで、かつクラッシックなスタイルは、徐々にクリエイティブな若手デザイナー達から、支持されるようになった。やがて、その評価が称賛に変わっていったことは、多くの受賞が証明している。日本では、第1回・第6回毎日ファッション大賞、芸術選奨文部科学大臣賞、朝日新聞朝日賞の受賞。米国ではアメリカファッショングループ・ナイト・オブ・ザ・スターズの受賞。ヴーヴグリコ・ビジネスウーマン・オブ・ジ・イヤーも受賞。フランス政府からは文学と芸術賞の授与、国家功労勲章の授与。イギリスからはロイヤル・カレッジ・・オブ・アートから名誉博士号を授与されるなど、多くの賞を受賞している。コムデギャルソンでは顧客向けにビジュアル誌を発行するなど、顧客とのコミュニケーションも独特のものがあり、広告や写真に登場するモデルはカメラを睨み付けるような表情もあった。このようなスタイルが、一部のファンからは熱狂的に支持されている。最近の活躍では、北京オリンピックに向けてスピード社が開発して物議を呼んだ水着・レーザーレーザーのデザインで、コラボレートしている。2009年8月から11月まで、大阪路面店入居の2Fに「Six」と名付けたスペースをオープン。さまざまなアーティストとコラボレーションし、コムデギャルソンの視線で関西からアートを発信する新しい試みを行った。本社は東京都港区南青山に構えている。1975年から東京コレクションに参加。1981年からはパリコレクションに参加。パリなど世界各地において200を超える直営店を持つ。川久保玲は世界で最も影響力のあるデザイナーランキングで、トップ5の常連になっている。


<< echirashi.com トップページ     << ビジネスコラムバックナンバー