ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 293

☆ 純国産第一号ジーンズ☆

2010.03.03号  

 日本製のテキスタイルが、世界のトップモードを裏で支えている。昨年12月のノーベル平和賞の授賞式で、米国大統領夫人ミシェル・オバマは、ニナ・リッチ(既号204.フランスの香り)ブランドのカーディガンを着ていた。このカーディガンのニット生地は、山形県寒河江市にある佐藤繊維(既号250.オバマ夫人のカーディガン )の特製糸だった。SACAI(サカイ)はニットを得意とするブランドで、世界で取引の拡大を続けている。創立者でデザイナーの阿部千登勢はコムデギャルソン(既号288.前衛派アパレルの旗手)で、ニットやカットソーのパタンナーを十数年手掛けた後に独立。現在では欧米の有名百貨店やセレクトショップで、人気商品の仲間入りをしている。今年のS/Sよりイタリアの有名ブランドであるモンクレールの新ライン、モンクレール エスのデザイナーを努める。このように日本発のテキスタイルやデザイン、それに品質の確かさが世界のマーケットで高い評価を受けている。国内のファッション界においても、Made in Japan への回帰が進み始めた。中国を始めとする海外で生産された安価な商品が浸透する中、一方では純国産商品への信頼感が高まり、消費者の郷愁も相俟って改めて見直されている。作業着として作られたジーンズ(既号223.若者達のジーンズ )は、今ではオシャレ着としても多くのファンを獲得している。和製ジーンズの業界は、ある時期まで西のビッグジョンとボブソン、東のエドウィンが大きなシェアを持っていたが、近年では多くのメーカーが参入している。昨年、西友のカジュアル衣料部門が1470円ジーンズを発売して攻勢を掛けたが、ジーユー(既号260.爆安を買って自由に着る)は、990円ジーンズで巻き返しを図り話題を撒いた。今年になってジーユーと同じファーストリテイリング・グループのユニクロ(既号161.世界ブランド「ユニクロ」)は、国産を売り物にしたジーンズを売り出す。ジーンズマーケットの様相が激変するなか、ビッグジョンは純国産第一号のジーンズを復刻させる。デニムの聖地とまで呼ばれる岡山県倉敷市児島。ここで生み出される高品質のデニム生地を求めて、海外のラグジュワリーブランドや、ジーンズメーカーが買い付けに集まる。この地に本社を置くビッグジョンは、今年で創業70周年を迎えた。

 ビッグションは尾崎小太郎が、1940年にマルオ被服として創業。創業地の倉敷市児島は、現在でも学生服のメッカといわれる。マルオ被服は、この地で学生服やユニフォーム、作業着などの縫製をし、米国衣料の人気から米軍式パンツなども縫っていた。戦後になると闇市で米軍放出品のジーンズが売られていた。日本人が穿くにはサイズが合わず、マルオ被服はヒップやウェストなどをリメイクして販売。当時の米国製中古衣料は、米国への憧れもあり大人気であった。1951年に創業した大石貿易が、1963年に発表したCANTONジーンズを委託製造するようになり、その後はラルフローレン(既号218.ネクタイのセールスマン)のジーンズも委託製造していた時期がある。やがて、米国のコーンミルズ社から生地を、輸入して縫製したBIG JOHNブランドのジーンズが誕生。1964年にオリジナルのジーンズを販売するに当たり、ブランド名が検討された。ブランド名を自分の名である小太郎からリトル太郎。日本での太郎は最もポピュラーな名前で、それに当たる米国で最もポピュラーな名前がジョンである。しかし、リトルジョンでは大きな商売は出来ないと判断。一転してリトルをビッグにして、ビッグジョンとした。これが社名の由来である。そして翌年、伝説のヒット商品となったファーストモデルM1002を発表。モデル名のMはマルオ被服の頭文字である。1969年にはカラーシリーズROAD RUNNERがデビュー。日本で初めてカラージーンズを生産販売。M4002ベルボトムジーンズを販売した。語呂の良いブランド名も相俟って、ジーンズは一大ブームを巻き起こす。1972年にはクラボウとデニム生地KD8を共同開発し、翌年にKD8を使用した純国産ジーンズ第一号を発売するメーカーとなった。

 ジーンズバトルが繰り広げられるなか、岡山や福山地区のジーンズ関連企業各社は、この数年苦戦が続いている。そして、昨年7月に大手の一角ボブソンが崩れた。近年は海外製の低価格ジーンズにシェアを奪われていたが、7900円以上の高価格帯商品でも新興ブランドやインポートブランドとの競争が激化していた。ボブソンもマーケットで存在感を発揮できずにいたなか、主力販路であったジーンズショップの凋落も大きな影響を及ぼした。近年は生産数量の減少傾向が止まらず、一昨年には愛媛県・吉田工場を閉鎖しており、山口工場と上海工場の2工場体制だった。昨年9月にボブソンブランドを、東京の投資ファンドであるマイルストーンターンアラウンドマネジメントが出資する新会社に譲渡。新生ボブソンは従業員や販売先等を大幅リストラ、体制をスリム化したなかで、子供服ブランドであるオシュコシュビゴッシュの企画製造販売に注力しており、売上高は半減する予定だが、新体制初年度から黒字決算を目指せる経営体質に転換している。旧ボブソンは1950年に山尾被服工業として創業。創業者は当時のマルオ被服創業者・尾崎小太郎の実弟であった。当初は学生服や作業服の製造販売をしていたが、1970年にジーンズの製造販売を開始。その翌年からボブソンブランドを使用していた。この社名は創業者が戦争で捕虜になり、ホブという監督官に相当酷い仕打ちを受けたという。それでボブに恨みを抱いていたことから、ボブ(=アメリカ)に損(ソン)をさせたい一心で、ボブソンを社名にしたという本当か嘘か判らない話が伝わっている。

 ビッグジョンは1980年にドイツ・ケルン市でのジーンズメッセに、国産メーカーとして初出品。1984年にマルオ被服からマルオに社名変更。1989年に現社名のビッグジョンに再変更した。1999年には中古加工ファクトリーウォッシュの新業態に挑戦。2000年には静岡県・御殿場のプレミアムアウトレットに初のアウトレットショップを出店する。1990年代以降はカジュアル衣料メーカーや、大手量販店が次々にジーンズ市場に参入し、主力の専門店を圧迫している。最近では800円台の激安品が登場し、老舗メーカーはどこも苦戦を強いられている。ビッグジョンでも昔は小さな専門店や小売店を足繁く廻り、商品を卸していた。店主一人一人と向き合い信頼関係を醸成し、3000軒ほどの取引先を持つようになり今日を築いてきた。中古ジーンズをリメイクして売っていた時期には、周囲から小汚い古着を扱うことから、雑巾屋になったとまで陰口を言われたこともあるという。しかし、そのさげすみのニュアンスを含んだ世評も、創業者に取っては勲章だったのかも知れない。1991年に尾崎小太郎は山陽新聞の産業功労賞を受賞している。今回ビッグジョンが復活を期した復刻ジーンズJAPAN modelは、純国産第一号を完璧な形で甦らせた。ジッパーや赤タブなどの細部にも、当時の空気が漂う。ヒゲやアタリにも、かつてのイメージを落とし込んでいる。鉄製のボタンを銅メッキしたのも当時のまま。ご丁寧にも一針進めすぎた縫製ミスまで再現させる念の入れ方である。2月に19800円で発売された。3月にはFIRST model、5月にはPROTO modelが発売される予定である。児島の繊維産業は、綿花造りが盛んだった江戸時代より、足袋や学生服、それに作業着やジーンズと時代の変遷と共に、主力商品を変えながら、強かに逞しく生き抜いてきた。高度成長時代の真っ只中で、瞬く間に消費者に溶け込んでいったジーンズの歴史は、そのまま日本のジーンズの変遷であり、ビッグジョン70年の歩みでもあった。


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