ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 298

☆ 迷走する鉄の女☆

2010.04.07号  

 ジル・サンダーは1943年にドイツ・ハンブルグで生まれた。目は丸くてチョット垂れ目だが、栗色のウェーブヘアーとキュートな笑顔が可愛らしい女性である。クレフェルド・スクール・オブ・テキスタイルを卒業し、テキスタイル・エンジニアの資格を取得した。アメリカに渡りカリフォルニア大学に2年間在籍後、ニューヨークで雑誌社に勤務。マッコールズやコンスタンツなど、女性誌のファッション・ジャーナリストとして活躍する。1965年になってドイツへ戻った後に、ハンブルグにブティックをオープン。当初はティエリー・ミュグレーやソニア・リキエル(既号189.ニットの女王)の服を中心に販売し、加えて僅かであったが自らデザインした服も売っていた。1968年になり自らの名を冠したアパレルブランド、ジル・サンダー社を設立。1973年にはパリ・プレタポルテ・コレクションにデビューするが、1980年には撤退。1985年になって活動の場をイタリア・ミラノへ移し、2年後にはミラノ・コレクションにデビュー。ジルがデザイナーとして活動を始めた当初は、順風満帆とは行かず苦悩の連続でもあった。ジルがデザインを始めた1970年代半ばから80年代前半までは、クロード・モンタナがデザインするような、カラフルで派手な服が主流であった。ジルの洗練された繊細で、品質にこだわったミニマルなデザインが認められるのは、90年代になって時代が変わるまで待たなくてはならなかった。それでもジル・サンダーのブランドが生き延びられたのは、香水部門の売り上げが順調に推移していたからだった。1989年にジル・サンダー社はフランクフルト市場に株式上場を果たし、取得した資金で海外での大規模な事業展開が可能となった。1997-1998A/Wよりメンズラインをスタートさせる。作品は縫製技術の高さとシンプルでミニマルな創り、シャープな感性にビジネス感覚も合わせ持っていた。また、ニーズに沿った服を提案していたこともあり、「ドイツのアルマーニ(既号131.モードの帝王)」と称されて、多くのファンを獲得していく。プーマ(既号138.ダスラー兄弟)とコラボレーションしたスニーカーも発表し好評を得る。1999年になりジル・サンダー社は、絶頂期にあったプラダ(既号205.ブランドの迷走と再起)に、株式の75%を取得される形で買収される。ジルは2000-2001A/Wを最後に、デザイナーを辞任する。原因はプラダグループの総師であるパトリッツォ・ベルテッリとの不仲と云われている。不仲の理由は素材の品質を落としたくないジルと、コストを考えるグループの対立があった。ジルが引退を決意していたと思われる2000S/Sコレクションでは、それまでのジルの作品とは異なり、華やかさを感じさせるデザインが多く出品され、パトリッツォ・ベルテッリへの抵抗だったと噂された。「鉄の女」とまで云われたジルの、意志の強さが表現された作品は大きな反響を呼んだ。

 プラダはジル引退後の後任デザイナー探しを、LVMHグループ(既号203.熟成を待つ一億本)に協力を求めた。過去には共にフェンディ(既号163.3世代で育てた世界ブランド)を買収した経緯もあり、LVMHグループはルイ・ヴィトン(既号16.LVMHの5バリュー)にマーク・ジェイコブスを起用したり、セリーヌ(既号114.B.C.B.Gの代名詞)にマイケル・コースを抜擢したり、ロエベ(既号58.さりげないオシャレ)にはナルシソ・ロドリゲスを就任させるなど、デザイナーの起用には多くの実績を誇っていた。そこでプラダはLVMHグループに対し、ジル・サンダー社を譲渡する代わりに、ルイ・ヴィトンが持っているフェンディの残りの半分の株式を交換するよう提案。しかし、ジルのいないジル・サンダー社と、異例のマルチブランド・デザイナーであるカール・ラガーフェルド(既号200.ブランドとデザイナー)を擁するフェンディを交換するような、都合のよい話は成立する筈もなく、結局はプラダのデザインチームがジル・サンダー社のデザインをすることになった。この頃のジル・サンダー社は精彩を欠いていたと云われる。迷えるプラダは2000年の暮れに、短期間だがグッチ(既号127.ブランド商品の元祖)のデザイン・ディレクターを経験し、パリのセレクトショップ・コレットの元バイヤーであるミラン・ブクミロビッチを、新しいクリエイティブ・ディレクターに起用。その後はミラン・ブクミロビッチが、すべてのショーや広告キャンペーンを担当するようになった。2003年5月にジルはプラダ側の呼びかけにより、ジル・サンダー社のデザイナーに復帰。2004S/Sのミラノ・コレクションよりデザインを手掛ける。しかし、ジルは2004年11月に、再びデザイナーを辞任。翌年の7月よりベルギー人のラフ・シモンズが、メンズとレディースのクリエイティブ・ディレクターに就任する。2006年3月、ロンドンの投資会社チェンジ・キャピタル・パートナーズが、プラダグループからジル・サンダー社を買収。2007S/Sのラフ・シモンズによるレディースコレクションは、ミニスカート、ミニドレス、細身のパンツなどが中心でミニマルなデザインだった。さらに素材や色づかいなど、ラフ・シモンズが得意としているスタイルの、組み合わせが素晴らしく高い評価を受けた。その後はアクセサリー・コレクションを本格展開。2008年にはニューヨークに、総売り場面積は600屬隆艦店をオープン。ラフ・シモンズが手掛けた初めてのショップであった。
 
 昨年3月、ジル・サンダーが紆余曲折のデザイナー人生の中、ユニクロ(既号161.世界ブランド「ユニクロ」)に巡り逢う。ジルが代表をつとめるJS CONSULTINGと、ユニクロを傘下に持つファーストリテイリング社が、デザイン・コンサルティング契約を結んだ。ジルがユニクロのメンズ&レディース共、デザインクリエイティブの監修に関わり、限定商品のコレクションラインもデザインするという。このニュースが伝わると、国内はもとより海外のアパレル関係者たちにも衝撃が走った。何故なら、これまでのジルのビジネスとは、対局にあるユニクロと組んだからだ。ユニクロを運営するファーストリテイリング社の柳井正会長は、ジルを「世界で一番素晴らしい服を作るデザイナー」と絶賛するほど惚れ込んでいる。確かにジル・サンダー社の時代には、ミニマルでシャープなスタイルはキャリア女性に好まれ、オシャレな男性が好むスーツブランドとしても定評があった。柳井正会長に「21世紀最初で最後のグレイティストデザイナー」と言わしめるジルだが、現在オンワードが所有するジル・サンダー社とは既に離れている。1990年代には「世界で最も高価な服を作る」と云われ、現在でもラフ・シモンズがデザインするジル・サンダー社のTシャツは、一着2万5千円もする。ジルの監修によるユニクロ製品は、昨年の秋から店頭に並んでおり、ジルは「高級ブランドの服と合わせても着られるような、低価格でも洗練された服をユニクロと組んで世界の人に提供したい」と意気盛んである。一方のオンワードではジル・サンダー・ブランドのイメージが崩れることを心配し、「すべての権利は当社にある」と牽制する。アパレルブランドの本家に、創業者がいない現実には、違和感があることも否定できない。ジルにはジル・サンダーの商標・名称を使ってのビジネスは勿論、自分を名乗ってデザインを発表することも、できないジレンマを感じていることだろう。創業者の存在とは関係なしに、ブランドを売買するアパレル業界の、競争の熾烈さも思い知らされる現実である。

 2008年10月、ジル・サンダー社はオンワードホールディングス(既号158.世界ブランドの構築)に買収された。買収額は約264億円と発表されている。オンワードでは海外事業の拡大強化が狙いで、海外における企画、生産、販売などの基盤を作り、業績が伸びているイタリアのジボコーグループや、イギリスのジョセフグループなどの事業と、グループ間での相乗効果を期待している。ジル・サンダー社は2009年になって、アイウェアーメーカーのマーションと、グローバルなライセンス契約を締結し、アイウェアー製品を発売。2009-2010A/Wよりダミアーニ(既号198.憧れのジュエラー)とライセンス契約を締結し、イヤリングやブレスレットの展開もスタートさせた。ジル・サンダー社では「装飾なきデザイン」をコンセプトとしており、内面の豊かさや美しさを表現するには、無駄な装飾がないシンプルさと、品格が必要としている。そのためには素材やカットが重要な要素となる。さらに着心地のよいものに仕上げるためには、細部にまで拘りが必要としている。ジルのデザインはミニマリズムの典型で、シャープなカッティング、シンプルで機能的な服作りが特徴であった。このジルの思想は、自ら率いたブランドを去って5年半経った今でも、ジル・サンダー社に生き続けている。


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